September 11, 2010

いやわ

 

我が家の次男坊は、もう3歳なんだけど、まだ片言だ。

 

こちらの言っていることはほぼ分かっていると思うんだけど、本人が何言ってんだかよく分からない。

 

聞き取り辛い。

 

でも、そんな不完全感がかわいらしい。

 

外人タレントの不完全な日本語で、笑えたり、癒されるのもその類だと思われる。

 

最近、次男は、急激に成長しつつあるけど、それでもまだ何を言いたいのかわからないことが多い。

 

一所懸命こちらに何か訴えてかけているんだけれども、聴き取りにくくて、適当にふ〜ん、ほんと〜、そ〜なんだ〜、なんて対応をしてしまう。

 

でも、かわいいからゆるす。

 

 

彼は “だ” が言えない。

 

『ちょーだい』 や 『いやだ』 は彼の得意技で、一日に何回も言いまくっているけれど、 “だ” が言えず、そこだけ『わ』になってしまう。

 

だから、『ちょーわい』 や 『いやわ』 になってしまう。

 

 

でも、かわいい ♥

 

 

で、3歳の男の子が言うと、とってもかわいらしいんだけど、例えば、これをタムチさんが言ったらどうだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

ぜんぜんかわいくない。。。

 

 

 

 

 う〜ん

 

 

 

 

むしろ、イラつく。

 

 

なんでイラつくんだろう?

 

それは、彼がきちんと言えることが分かっているからだ。

 

 

じゃ、きちんと彼に言われたらどうだろう?

 

 

 

 

 

私の指示に

 

 

『いやだ』  

 

 

と反発する

 

 

 

 

 

 

少ないから

 

 

もっと給料

 

 

『ちょーだい』

 

 

とねだられる

 

 

 

・・・

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

ぶっとばしたくなるな。。。

 

 

 

 

ま、この場合、たまたま言葉の持つ意味に反応したわけだけど、“〜〜だ” というように文章の末尾にこの “だ” がつくととても断定的な表現になったりする。

 

『あなたは〇〇だ』と言われた時、〇〇にあたるところが、“天才” だったら、まーそーだよね、正しい判断だよね、と言ってあげることができるけど、“バカ” だったりしたら、ライダーキックならぬイトチャンキックをお見舞いしてやりたくなる。

 

 

 

人生は決断の連続。

 

あらゆることに私たちは選択と決断を繰り返している。

 

決める、決断するということは、生きていく上でとても重要なことになるけれど、それは在る程度、自由度の高いものでなくてはならないと思う。

 

つまり、決断したことも間違うことがあるし、同じものでも人によって見え方が違うということもあるわけで、たったひとつの判断基準で物事を図ることは危険だということだ。

 

それなのに、決め付けてしまう人のなんと多い事か。

 

自分も含めてね。

 

 

決め付けられる側としては迷惑千万。

 

また、他人に決められるのもどうかと思うけど、自分の限界を自分で決めてしまうことや、自分はこういう人なのだと決めつけることは、とってももったいないこと。

 

それから『べき』論で物事を語ることは、これも自由度が低くなる。

 

あるべき、するべき、という概念は人を縛る。

 

こういう感覚はもろ刃の剣で、自分に枷をかけると同時に他人にも同じように枷をかけたくなってしまう。

 

自分が強くこうあるべき、こうあらねば、と考えていると、同じ力で他人にそれを強要したくなる。

 

振り子の原則だ。

 

 

こんなことを言われたことないだろうか?

 

『あなたってこういう人だよね』

 

『あなたはこうすべきだよ』

 

 

私はこんなことを言われるとイラっとくる。

 

つまり箱に入る。

 

ほっとけって話だ。

 

おまえが勝手に決めるなって思う。

 

私自身究極の変人であるならば別として、自分がこう思うということは、私以外の人も、個人差はあれど、同様に感じることなんだと思う。

 

え? 変人?    ま、うすうす気づいてはいたけれど・・・   って ほっとけ!

 

 

なのに、往々にして人は、他人を決め付け、コントロールしたくなる。 

 

でも、振り子の原則でいえば、結局は自分がコントロールされていることになってしまう。 

 

自分の思い通りにならない他人を嫌えば、その人のことを避けるようになったり、陰で愚痴を言うようになったりする。

 

避ければ、自分の意志での行動範囲は狭くなるし、愚痴を言えば、まわりまわって自分のところへかえってくる。

 

自分は他人にコントロールされていることになってしまうわけだ。

 

組織内では往々にしてそれが頻繁に繰り返されている実情があり、個人のやる気が阻害され、能力が発揮できずにいる社員もきっと多い。

 

私も経営者として社員のみんなに対し、心がけてはいるけれど、できていないことも多い。

 

自分を解放する、楽にする方法を考える。

 

甘えや怠けではなく。

 

そうすれば、きっと社員みんなが解放されて自由度が高まり、一人ひとりが自分の意志によって輝き始めるのではないかと思う。

 

 

私は他人にコントロールされたくない。

 

だから、私はコントロールしようとする人間にこう言ってやろうと思う。

 

 

 

『いやわ』

 

 と。

 

    



houkinkun at 12:00│Comments(0)TrackBack(0)clip! 

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