September 23, 2009
世代を繋ぐもの
アメリカの音楽はなぜ格好良いんだろう?
カントリーミュージックやブルースなんてもはや古典のようなものなのに、そこに惹かれる若者たちは後を絶たない。
世の中に流通している音楽は、新しいジャンルが出てきたり、音楽性が多様化してはいるが、多くの人に受け入れられるベースにあるものはそんなにあれこれはない。
ゴルフというスポーツの良いところは10代、20代の若者と50代、60代の中高年が同じフィールドで戦うことができるという素晴らしい要素でもあったりする。
バスケットボールやバレーボール、野球でもそうだが、50代のおっさんチームと10代の若者チームが戦えば、ふつうは体力的におっさんたちが負ける。
陸上や水泳など、体力勝負なものに関して言えば、年齢別を設けなくては、ほぼ間違いなくおっさんやおばはんたちが若者たちに勝つことなど不可能だ。
音楽の話に戻す。
有名どころで言えば、ビートルズやローリングストーンズなどのバンドは、もはや古典となってしまっている感はあるが、しかしそれでも世界中の多くの老若男女に今も尚、愛され続けている。
彼らはブルースやカントリー、ロカビリーなどの音楽をリスペクトしつつ、自分たちの音楽の可能性を模索した。
ローリングストーンズにいたっては、シカゴブルースのドン、マディーウォーターズのことが好きすぎてバンド名に反映されてしまったぐらいだ。
過去にはそんなマディーやブルースの大御所たちをリスペクトしたイギリスの若者たちが、ブルースの一大ムーブメントを起こし、今でも世の音楽の潮流、原点にもなるような流れを作り出していった。
その流れに乗った代表格がエリック・クラプトン。
ゴルフの話にオーバーラップさせると、何を基準とするかは難しいとは言え、クラプトンに挑んで勝てない若者たちは世の中にムチャクチャおると思う。
ギターや歌がどれだけうまくてもだ。
経験や知名度がモノをいうのかもしれんが、今回そういったことが言いたいのではなく、おっさんやおばはんも若者も同じフィールドに立てるということの素晴らしさをフォーカスしたいので、細かいことは机の一番下の大き目の引き出しにでもナイナイしておいていただけたら幸いだ。
欧米諸外国にはそんな老若たちが、そこかしこ、同じ楽曲で共演や競演するシーンをよく見かける。
先日、YouTubeで往年のロカビリーアイドル、ジョニーパワーズ翁が若者たちと彼の代表曲《Long Blond Hair》を一緒に楽しそうに演奏しているクリップをたまたま見て、感動してしまった。
現在のジョニーさんの生活や立ち位置は全然分らんけど、もし歌手活動をしているにしてもきっとそんなに売れてないんだろうなという気はする。
でも、我らがキング、プレスリーで有名になった例のサンレコードのロゴが入ったTシャツなんて着ちゃって、自分の孫と同じような年代と共に歌う姿はとっても素敵に見えた。
そして、これがまた楽しそうだし、格好良いのだ。
日本でいえば差し詰め北島サブちゃんと氷川のきよしくんの夢の競演!みたいなところだろうか。
最近、女子高生演歌歌手がデビューしたらしい。
カレンちゃんというらしい。
でも顔を見た瞬間、演歌の人の顔だった・・・。 なんでそう感じたのか説明できんけど・・・。
もちろん顔のつくりとかじゃなくて、なんと言いましょうか、こう、ニオイと言いましょうか・・・
テレビだしニオワナイケド・・・
でも、なぜ演歌は年寄りの専売特許のようなものなってしまうのだろうか。
演歌復興を目指し、あの手この手で起爆剤を投入してもなかなか爆発しない。
女子高生だろうがさくらまやちゃんのような小学生だろうが、話題性でスマッシュヒットはしても、その後続かないだろうなということは想像に難くない。
違ったアプローチでそこそこ成功している人と言えばジェロさんなんかがいるけど、どうなんだろうか。
鼠先輩に関しては書く必要性はないだろう。
きよしくんがいくら演歌界のプリンスだと言ってもファン層が物語っているし、彼のフォロアーも出てこない。
アメリカのカントリーは日本でいうところの民謡のようなポジションだし、ブルースでいえば同じく大衆音楽である演歌のようなものだ。
ブルースと違って演歌の歴史は長くない。
ブルースもクラシックのように長くはないけど。
だから、演歌は日本古来のものでもなければ、実はいろんな欧米音楽の諸要素を含んでもいる。
にしても、日本人が取り入れてしまうとなぜあんな風になってしまうのだろうか・・・
私は別に演歌が嫌いでもないし、批判しているわけでもないのだが、なんであんなんなっちゃうんだろうか、といつも思うのだ。
八代亜紀なんて大好きだし、あんなソウルフルな歌を歌う人はなかなかいないと心の底からそう思う。
なんでもそうだが、日本人は物事の本質からではなく、《スタイル》から入ることがたくさんあるように思える。
音楽なんだから、音楽性だろ、と思いきや、実はそうではないようだ。
丘サーファーなどのなんちゃって族と言われるような人たちがいろんなフィールドやジャンルで存在したり、ブランドもんのバッグや財布をやけに消費する国民性がなんだか物語っている気がする。
というわけで、今回のネタも徒然としてしまったが、日本の演歌もアメリカの演歌に追いつけ追い越せということで、なんとかならんもんかねぇと草葉の陰から応援したいという気持ちも持っているし、将来的には自分の息子たちとも同じフィールドで音楽を競演できたらとても楽しいだろうなぁ〜と感慨深くなってしまうイトちゃんなのであった。
トラックバックURL
この記事へのコメント
「じゃぱにーずそうる」がなんとなく人生の達人達の歌に聞こえるのは、日本語だから。
英語で同じ歌詞を歌ったらきっとカッチョイイ
日本人が英語を、外人が日本語をカッチョイイと思っている事と同じじゃないかな〜?
ようは「感性」
どこまで、新しい事、変化、興味を持ち続け、そしてそれを自分の仕事や趣味、生活に置き換えて活用できる柔軟性じゃないかな???
なんて思っています。
テキトー放談にマジレススミマセン・・・
でも、今の会社にそんな気持ちの人がいなくて。。。かなり残念・・・
伊藤さんの会社の人がうらやましいです。
コメントありがとうございます。
>どこまで、新しい事、変化、興味を持ち続け、そしてそれを自分の仕事や趣味、生活に置き換えて活用できる柔軟性じゃないかな???
なるほろ〜
アタクチはきっと飲み過ぎで脳みそが軟化し始めていますので、やわらかさには自信があります!
・・・
脳みその軟化なら、負けませんよ〜
だって、三河生まれの愛妻と毎晩晩酌だもん
柔軟通り越して・・・やばっ!
名前がビールマンだもん・・・