May 11, 2009

続・学びを得る

 

児童虐待のニュースを毎日のように目にし、耳にする。

 

せっかんから死に至らしめるケースも後を絶たない。

 

同じく子供を持つ親としては悲しい気持ちでいっぱいになるし、親に虐待され死んでいく子供たちを思うと胸が締め付けられる想いでいっぱいになる。

 

起こった現象だけを捉えて物申せば、とても人の所業とは思えず、鬼の所業とでも言うべき行為だ。

バックグラウンドに何があったかは知らずとも、地獄があるならば、落ちてその業火を浴びよ、針の山を歩けとでも言いたくなる。

 

親が子を殺し、子が親を殺す。

そんな事件が後を絶たない。

 

しかし、親がまだ小さな子を殺してしまう行為は、子が成長して親を殺すこととは随分性質が異なるものだ。

 

まだ幼い自分の子供を殺してしまう理由のほとんどは痴情、怨恨のもつれでもなければ、もちろん強盗や証拠隠し目的でもない。

 

≪子供の姿はすべて完全に親の責任≫だと考えている私としては親殺しで殺された親は自業自得、報いが天から降ってきたようなものだと捉えている。

 

数年前に学校や教師のあり方などで教育系の特番がしばしば組まれていた時期があった。

それらの番組に頻繁に出演していたニートや登校拒否児を受け入れる、ある教育施設の女性の校長の言葉が印象的で、この人はおかしいわ・・・と強く思ったのでよく覚えている。

 

≪原因はすべて子供にある≫とのたまったのだ。

 

その言葉を受けて、同じくその番組に出演していた岡崎市のやんちゃ和尚、かの有名住職は真っ向から反論していた。

 

しかし、数ヵ月後、その施設での児童虐待が告発されニュースになっていた。

そのニュースを見て、やっぱりな・・・と思ったことを思い出す。

 

それは、虐待をしていたんだろうなという≪やっぱりな≫ではなく、違和感を感じた自分は間違っていなかったなという確信の≪やっぱりな≫だということだ。

 

原因を子供に求めていくと結局はそういう所業を招くことになっていく。

そもそもの責任が教育する側(大人)にではなく、子供にあると考えているからだ。

 

おまえが出来んからいかんのだ! お仕置きしてやるっ!

 

そして小さなコミュニティーの中で様々な感覚が麻痺し、教育の名の下に間違った行為がエスカレートしていく。

≪カルト≫と呼ばれるような状態も、こうした環境の中で作り出されていく。

 

子は親の鏡。

だから親の責任において真剣に育てなきゃならん。

しかしながら、子は決して親の私物と化してはならんのが鉄則だ。

 

子供にだって心がある。

生まれたばかりの赤ちゃんにだって当たり前に心があるのだ。

赤ちゃんだって、あんなに小さくても、動物でもなければ物でもなく、人なのだ。

 

虐待は子供を物として見て扱う現象の最たるもの。

 

岡崎のやんちゃ和尚だって体罰で問題になったことがある。

しかし、私は体罰を否定しないし肯定もしない。

 

では虐待と体罰の境は何か?

 

それはやっぱり子供を人として見ているか、物として見ているかの違い。

子供を親の都合だけで手をあげるというような状態ではなく、そこに愛情があれば私は体罰を否定しない。

情操的な発達や発育がまだ低い子供にとって、強く印象付ける手段として時には必要なことだとも思うからだ。

しかし、それが正しいことなのか正しくないことなのかの判断は現在のところ残念ながら私にはつけることができない。

 

 

≪虐待に見えるけど本人は体罰のつもりだったらどうするの?≫

 

こんな愚問は懸命な人ならばしないはずだ。

 

私なら逆にこう質問する。

 

≪では、その虐待に見える行為を、もしもあなたがされたならばどう思うか?≫

 

常識的か非常識的な行為なのかをそもそも判断できない親の下で育った子供には残念ながら不幸な未来が待っている。

 

あなたが常識を持った人だとしてその行為が虐待に見えるのならばそれはおそらく虐待なんだろう。。。

 

 

最近ではわけの分からん当て字で子供に名前をつけてしまう親がたくさんいるが、本当に子供の幸せを考えているのか疑問に思うことも多い。

完全に子供を物として捉えている。

 

これは凝った名前が子供を支配したいという気持ちの現われであったりするのだが、子育てがうまくいかずに怒りが子供に向けられがちな背景から虐待に走るというケースを考えてみても、どちらにしても子供を一人の≪人≫としては見ていない。

 

児童虐待事件の背景が明らかになると、原因は内縁の旦那にあったりして、母親に多少の世論の同情が集まったりもするが、私からしたら、そんなもん同情の余地などない。

どちらにしても母親の弱い心に問題があることには変わりないし、ましてや子殺しを正当化する理由など、どこにも見つけることなど出来ないからだ。

 

自分の立場で物事を考え、子供を邪魔な、余計な≪物≫としか捉えていない。

 

物事の結果には必ず原因がある。

起きてしまった現象だけで物事を捉えると原因がぼやけてしまう。

 

物事の真理はいくつもない。たったひとつだ。

そして、どこにポイントを置いて現象を捉えるかによってすべての事柄の見え方が変わってくる。

 

子殺しの原因は当然親にある。

親殺しの原因も親にある。

そもそもの原因は子にはないのだ。

 

しかし、親も昔は子だったのだから、そのまた親にも原因があるということになる。

 

というわけで、子供だけを教育したところで問題解決にはつながらない。

そもそもの原因は親にあるからだ。

 

親から人が生きていくための機微や多くの事柄に対する知恵を得ることができない現代の状況、とりわけ親と子の繋がりの希薄さや核家族化やご近所付き合いがなくなりつつある今、親だって親になるための教育を受け、学ぶことのできる場所や機会を国が強制的な施策として、もっと重点を置いて考えなくてはいけない時がきているのかもしれない・・・



houkinkun at 12:30│Comments(4)TrackBack(0)clip!テキトー放談 

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この記事へのコメント

1. Posted by ビールマン   May 11, 2009 15:09
同感!ゆとり教育のなかでで「心の教育」がされていない人達が多いような気がします。

私も子を持つ親として「1人の人格」を育てる事を目標にして、今もこれからも子育て中!!

子供とは目を見て話し、手を上げない。
自分の分身だから、必ず子供は理解してくれる。

心の教育、今の日本に本当に必要ですね。
2. Posted by 子育て子作り餃子屋   May 13, 2009 03:03
むつかしいよぉ〜。

すべて一概に言えない問題でもあるし、

自分が育てられた環境、幼少の記憶などから形成される親(自分ら世代)の価値観がそれぞれ違う中、良かれと思ってやっている事が普遍的ではなかったり・・・。

子殺し。虐待。感情的に考えれば涙が出て身震いするほどやりきれないニュース。

先日見たニュース。若い母親が女友達と、言うことを聞かない赤ん坊を熱湯風呂に何度も何度も、下半身が真っ赤に腫れ上がるほどつけ、虐待した。熱湯につけたとき、熱湯コマーシャルの芸人みたいで面白かったと、女友達と笑いながら虐待した。

このニュースを読んだ時、怒りと悲しみの感情を鎮めるのにしばらく時間がかかった。妻にはこのニュースを伝えることが出来なかった。

先日とある人と話した時に出た言葉。
それは、前世やスピリチュアルな話だった。

そういう話で事件を語ると一般的には拒絶反応が出るのは理解できるし自分もその一人だが、
時と場合によってはその説明だけが唯一、慰めや救いになることもある。事実かどうかは別にして、そうでも言わなきゃ精神的苦痛に飲み込まれてしまう。

殺された子の親族などは特に・・・。


3. Posted by 伊藤   May 13, 2009 11:57
ビールマンさん

コメントありがとうございます。

心が不完全である子供に対して、大人たちの思い描く『ゆとり』は、それこそ子供に対して不完全なもので、社会的にも大きな歪を生みました。

しかし、家族や親という学校教育を支える補完的な要因がきちんと機能していなかったことも事実だと思います。

学歴偏重社会は少しずつ変わりつつありますが、それでも日本ではいまだ根深い。

社会構造や社会環境も大事。

しかしもっと重要なのは親の考え方やあり方にあると思います。

親として、人として、学ぶべきことは多いです。。。
4. Posted by 伊藤   May 13, 2009 12:42
子育て子作り餃子屋さん

コメントありがとうございます。

子供が子供を生む時代。年齢や体格のことではありません。心や考え方の問題です。

若くたって立派な親はたくさんいます。

年齢は関係ありません。自覚の問題です。親としての自覚。

知らなければ学ぶ。でも学べなければ社会や制度が支えるべきです。

学ぶ環境を与え、整えることも、ベースとなる人格を作るのも親の責任。

だからそもそもの原因は親にあるのだと私は考えているのです。

前世からの業であるだとか、ソウルメイト云々などの話であってもそれは学びの賜物。

人生や生き方をどんな事柄(人の道に反しない事柄で)にしても伝えられる親であれば、子供は曲がらず育つのではないかと思うのです。

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