May 2009
May 30, 2009
信じる者は救われる?
組織や集団においては、当たり前のことなんだけど、人と人が関係し合い、機能し合うことが必要になる。
会社や家庭、友達同士のグループ、地域のコミュニティー、趣味のクラブ・・・
人間は何らかの形で多くの人たちと関わりを持って生きている。
相手を信用し、信頼する。 相手から信用され、信頼される。
相手を信じる。 そして頼り、任せ、委ねる。
相手を信用できないのはなぜなのか。
相手に問題があるから?
それとも自分に問題があるから?
目の前にある現実は、自分のしてきた決断と行動の結果の集積であり、それこそが自分を投影した鏡のようなもの・・・
いわゆる『鏡の法則』と呼ばれる自己責任についての考え方だ。
その法則に則って考えれば、信用できない人物と共に何かを成し遂げようという現実が目の前にあるのならば、それこそが自分の心を映し出した鏡のようなものであり、原因は自分にあるということになる。
もちろんこの場合、面識もない人や、犯罪者であるような人は除く。
つまり、相手が信用できない行動を取るように思えるのも、実際に信用に値しない、そのような行動を誘発し、相手にそれを起こさせてしまうことも、信用する側の心の持ち方によって引き起こされる結果であるということだ。
部下に任せたいのに信用できない。
旦那を信用したいのに信じられない。
子供の将来を願えば彼らの意思を尊重すべきなのにそれができない。
相手のことを信用したいのにそうなってくれないという現実。
そして信用できない心が引き起こしてしまう悲しい矛盾。
人は信用、信頼されると、それに足る行動を取るようになる。
逆に、そう思われていなければ、見せ掛けだけの偽りの姿を繕うようになる。
信用されていない態度を感じたり、言葉を投げかけられることで、誠実でいなければならないという強迫観念にかられたり、信頼に足る人物でいなければならないという強制力が働く。
そして心にかかった負荷はストレスへと変わり、さらに関係はこじれていく。
誠実で、信頼に足る人物でいるべきだという強制力が、くだらない小さな嘘をつかせたり、情報を遮断させてしまうことになる。
そして体裁だけを整えたイミテーションであることが分かると、さらに相手のことを信用できなくなるという悪循環に陥っていく。
では、この負のサイクルを止めるにはどうすればよいのか?
結論から言えば、相手を本気で信頼するしかない。
信用できないとこちらが思えば、結局相手はその思いに沿った行動しか取れなくなってしまうのだ。
じゃ、裏切られたらどうするの?
結論、しゃーないね。
人間は弱いもの。完璧であることがそもそもの間違いだ。
だから、それもひっくるめて相手を信じる。
しかし、盲目的に何もかも許すのではなく、相手に不誠実な行動を取らせないように布石を打つことが大事なのだ。
基本的に、自分の意見や主張だけで相手は変わらんと思っていたほうがいい。
大事なことは、自らの意思や姿勢を示すことだ。
つまり、自責の考え、鏡の法則というわけだ。
しかし、極端な期待や過度の信頼感は逆に反発やプレッシャーを与えてしまうことにもなる。
相手をコントロールしようと思ってしまうからだ。
自らをセルフコントロールし、誠実でいること。
それこそが、相手の信頼を勝ち取る方法だ。
誠実でいること。
きっと、その本質は行動自体の良し悪しは問題ではないのかもしれない。
取り繕ったり、見せかけたり、体裁を整えたり、嘘をついたり、隠したりする姿勢がいかんのだと思う。
相手を思いやり、自分が誠実でいることで信頼が生まれる。
相手を信用し、信頼することで、誠実さが育まれる。
お客様に対しても、社内の社員同士であっても、家庭であってもそれは普遍の原則。
だから、わが社に誠実と信頼の輪が少しでも広がることで、あるべき姿に一歩ずつ近づいているという実感を持つことができると思うわけなのだ。
ということで、まずは家庭でトレーニングに励むとしよう・・・
とりあえずオクサマの信頼を勝ちとら・・・
ネンリキだぁ〜 ビビビビビ〜
May 28, 2009
May 26, 2009
ボケの花
先日近所のスーパーへ行った。
新聞の折込チラシと思われるものが貼ってあった。
チラシ経費を価格に還元してくれるらしい。
そいつはラッキー! 激安だ! やったぜ かーちゃん!
ところで、
この還元のくだりについて、ちょいと辞書で調べてみた。
ある事を行うのに必要な費用。 「―節減」
元の状態にもどすこと。 「利益を消費者に―する」「白紙―」 元来は、酸化された物質を元にもどすこと。多様で複雑な物事を何らかの根本的なものに置き直し、帰着させること。
ということは〜
チラシ経費 → チラシを刷って配布するのにかかった費用
価格に還元 → 商品の値段にかかった経費をもどす
であるならばぁ〜
経費が仕入値に上乗せされる ≒ 値段がつり上がる
つまりぃ〜
≪チラシ配布にかかったコストを商品の値段に反映させる≫
となるとぉ〜
≪激安≫ではなくなる
または
定価であれば、1ミクロンも安くないため、詐欺
おい、よくも騙しやがったな
チッ バレタカッ!
・・・
なんてことはこのスーパーの場合、ただの間違いで、ないとは思うけど、どんな商売でも紛らわしい誤解を招くような間違いは良くない。
明らかに分かる間違いは許せるが、取りかたによっては詐欺とも言えるような宣伝広告はたくさんある。
通販業界ではヤラセや誇大広告は日常的、且つ恒常的になっている。
売り手のモラルの問題だけど、しかし、そのような業者は、結果、消費者を騙すことになるので長く商売はできない。
だから手を変え、品を変えることになる。
それから、他人の弱みや悩みに付け込み、巧みに洗脳しながら購買欲求をそそるキャッチコピーやコピーライティングが巷にあふれている。
購買意欲を引き出す言葉は重要だが、詐欺はいかん。
最近、我が家の机の上に置いてあるのを見つけた。
もちろん、私は買っていない。 もちろん?
ちなみに私のまわりに認知症の人はいない。
それに我が家は核家族で、親と同居もしていないし、面倒をみている年寄りもいない。
随分前に、同居している若干1名がこっそり買って来た本で、以前、読まれた形跡なく本棚に入っているのを偶然発見して、笑った覚えが蘇った。
それがようやく日の目を見ることになった。
おそらく買ってはみたけど、ずっと読んでなかったんだろう。
『おまえボケとんなぁ〜』
『もしもし、大丈夫?』
『オメ、やばいぞ、マジで』
あまりの天然さと、私の想像を遥かに飛び越えた勘違いや発言をするため、私は彼女に対して口癖のようにそんな言葉をたくさん投げつけている気がする。
相手のことをあまり気にせず、自分は冗談で言っているつもりが本人はそうでないことは良くあることだ。
申し訳ないなと思うと共に、人の言葉や行動が相手の心理に与える影響は大きく、またどんなことで相手の悩みや不安を作っていくのか分からんものだと思い、反省する瞬間でもある。
本気でコイツやばいんじゃないか・・・
と思ったことも本心ではあるんだけど。。。
なぜ再び読み始めようと思ったのかは聞かずにそっとしておいてやろうかと思ったが、聞いてみた。
えっ! なんで知ってるの!?
本人は隠れて読んでいたつもりらしい。。。
丸見えなのに。
ひょっとして、最近、自分のボケっぷりに悲しく残念な思いをした出来事があったのかもしれない。。。
でもね〜、明らかに年寄りの高齢からくる病気対策の本なんだけどね・・・
完全に買い手側が勝手に勘違いして買った品物の代表例が身近にあった。
売り手側にもちろん作為はない。。。
アホや。。。
残念な結果だけど、
やっぱボケて・・・
May 21, 2009
1・2・3
迷わず飲めよ
飲めばわかるさ
1・2・3 サイダァー!!!
広島県の齋藤飲料さんとアントニオさんとのコラボ企画とのことです。
勝手に宣伝しています。。。
でもサイダー1本200円。。。
(゚_゚) 。。。
いやぁ〜、相変わらず、アントニオさんの人気はすごいものです。
名前や存在価値だけでお金になってしまうなんて。
そんなヲトコになってみたいもんだ。
本物の自分自身の価値だけでね。
多くの人に真似されるほどのインパクトやパーソナリティを持っていることはすごいことだ。
存在感で稼げるヲトコになろうじゃないか!
しかし、アントニオさん自身も小銭稼ぐことがなんだかウマイですねぇ。
居酒屋といい・・・
誰かアタイの名前貸すからお金くれない?
あ、その代わり変なことに使わないでね
言っておくけど、戸籍は貸さないよ。 それに、すでに結婚してるしね。。。
・・・ ・・・ ・・・
しかし、サイダーが1本200円ということはアントニオさんはいくらもらってんだろ・・・?
いやいや、余計なお世話だな。
だけど最近、ウルトラマンとコラボしてるサイダー買ったよ。
100円だったよ。
どっちが強いかって言ったらウルトラマンじゃんか〜。
そういう問題じゃないな・・・
セブンだ
で、ホームページ見ると、アントニオサイダーのターゲットは≪子供から大人の男女≫なんだって。
・・・
若干、的が絞りきれてない気がするんですけど・・・
だって、男女って言葉外すとほぼ誰でもじゃん・・・
ところで、何で男女? 何を訴えたかったのかね?
それから、商品を購入すると、アントニオさん直筆のカードがもらえるらしいよ。
っつーか、どう考えても、直筆じゃなくて直筆のコピーだと思うんですけど・・・
ちなみに余計なお世話だけど
ネーミング・・・
アタイだったら
1・2・サイ ダァー!!!
にするかな・・・
だって、そのほうがリズムがいいし・・・
でもやっぱ、3て数字はきちんとあったほうがいいのかね・・・
スミマセン、営業妨害してるわけじゃありませんのでアシカラズご容赦ください。
あくまで個人的な見解でございます。。。
ところで、≪ダァー≫って何だろね?
ただの気合を入れるための掛声?
アントニオさんは何かを主張したいの?
≪イチ、ニィ、サンだぞー!≫ とか ≪ワン、ツー、スリーでございますっ!≫的な意味合い?
それとも怒ってんの?
ところで、この辺(豊橋界隈)の人って怒れた時、『 ん〜 だぁーっ 』て言わない?
まー、そんなことはどうでもいいや。 話を戻そう。
てか、戻しても、結局はどうでもいい、しょうもない話なんだけどね。。。
みなさん、いつも付き合っていただいて、アリガトウゴザイマス。。。
アントニオさんもたまには、ファンサービスの一環で、
イチ・ニィ・サン シィー!!!
なんてボケてみたりして。。。
んで、観客からオイッってツッコミを入れられて、逆にビンタされちゃってみるとか。
ダメか。。。
んじゃ、おフランス風にさー、
アン・ドゥ・トロワ ナイスバレリーナ!!!
なんてどうかしら?
クルクル回っちゃったりして。
やっぱダメ?
じゃぁ〜、いろいろ組み合わせて
アン・ドウ・さんの サイダーだぁーっ!!!
どぉだぁーっ!!!
と
いうことになれば、
≪サイトウさん≫が全国の≪アンドウさん≫をターゲットにするという構図も出来上がり、見事にセグメントが絞れることになるから、より戦略的なマーケティングを展開することが可能になるではないか!!
サイトウ VS アンドウ
時々 イトウ
・・・ ・・・ ・・・
ところで、私の知っている関西地区在住の、とあるアンドウさんに、
めばちこできたんですか!?
と言われた。
ん??
最近、眼の下のまぶたの皮膚を痒みから、こすり過ぎて炎症をおこして赤く腫れていた。
それを指摘されてのことだった。
なんとなくそんな言い方もあるとは薄々わかってはいたけど、突然言われて、なんじゃそりゃ?!とたじろいでしまった。
≪めばちこ≫とは、関東圏では≪ものもらい≫という。
いわゆる方言だ。
もちろん関西地区の方は≪めばちこ≫のことを当たり前にご存知だと思うけど。
京都あたりでは≪めぼ≫とも言われてるみたいだ。
正しくは麦粒腫(ばくりゅうしゅ)と言う。
伝染する病気的に言われたりするけど、全くうつらないらしい。
で、私もその≪めばちこ≫かと思っていたが、でもほっておいた。
でも、一向に直らないため、仕方なく病院に行ったら、ただの皮膚炎だったことが分かった。
ちょっと薬を塗っただけで随分良くなった。
早く行けばいいものを、なんで病院行けないんだろ・・・
ショータレやねぇ。
今回だって子供を病院に連れて行ったついでに診てもらったぐらいだ。
やっぱアホやねぇ。
で、その麦粒腫だが、豊橋では≪めばちこ≫とは言わない。
と思う。 少なくとも私は聞いたことが無い。 ほぼ≪ものもらい≫や≪ものむらい≫などの言い方しか聞かない。
愛知県は経済圏としては関西エリアに属するけど、言葉は関東寄りということかね。
それとも豊橋が関東寄りということか。。。
静岡県が近いし。
すき焼きの味付けや調理方法が、豊橋あたりでちょうど東西の堺になるということを聞いたことがある。
ということは、その他の料理も豊橋が微妙に分岐点になっているのかもしれない。
関西風で直接砂糖や醤油を入れて作る方法も、関東風でわりしたを入れる調理方法も、ここ豊橋ではどちらも≪アリ≫だと思う。
実際に、お店によっても家庭によっても、それぞれに違うやり方が混在していると思う。
三河地区って何気に日本の中心地域だし、考えてみれば西と東の文化の交流地域で、とても重要な位置を占めてるのかもね。
またもや脱線してしまったけど、で、その麦粒腫には、各地方によって様々な変わった呼び名があって、迷信から呼び名が付けられてる場合や、この病気の患者の仕草などに由来があるようだ。
≪めばちこ≫は、デキモノができて患者が目をバチバチするからだとか、≪ものもらい≫は誰かに何かをもらうと治るだとか、適当な迷信があるようだ
というわけで、
とりあえず、タムチさんに『何かおくれっ!』と言ってはみたけど、何もくれんかった。
ケチなヤツだ。
ケロタム改めケチタムだ。 ケチケチタムタムだ。
ケチはギャルやレデーに嫌われるよ。
・・・
早くクルクルしないお寿司屋さんへ連れていっておくれよ〜。
ところで、タムチさん、『間に合う』ブログ 連続3回ご出演おめでとうございまーす!
パンパカパーン
やったぜケロタム!
登場回数
1・2・3回目・・・
だー !
写真使われるのも
3回目
だー!
ひょっとして4回目もあるかもね・・・
May 19, 2009
結果を求める
薬師丸ひろ子
↓
やくしまるひろこ
↓
ひろこ
↑ ↑ ↑
じーっと見る
そして
さらにじーっと見る
・・・
≪薬師丸ひろ子≫さんの名前の≪ひろ子≫の部分だけを何の気なしにボーっと眺めていたら、私だけかもしれないけど、稀に起こる、あるヘンテコリンな感覚にまた襲われた。
ひろこ?
ひろこって何?
名前や文字を見ていると、たまにわけが分からなくなることがある。
この現象を説明しようにも、極めて感覚的な事柄なので、イマイチ説明し辛く、表現がし難いんだけど、何て言ったらいいんだろう・・・ 例えるならば、まるで3Dアートで急激に浮かび上がってきた絵を見ているかのように、私の中で文字が持つイメージが何だか変わってしまうという・・・
名前だけではなくて、他にもどんな文字の形(特に漢字)でもそうなんだけど、今まで見えてたというのか、見ていた、または感じていた感覚やイメージが、あたかも一瞬にして違う文字や情報に脳みそが認識してしまうという経験が、皆さんにはございません?
あるでしょ?
ん? ない?
『あらま、これってこんな文字だった?』
『あれっ?この漢字ってこんな感じだった?』
さりげないダジャレが相変わらず天才的で申し訳ないんだけど、その辺りのことは、天才は敢えて話を膨らませず、特にフィーチャーもせずにさらりと書き進めたいと思いつつ、話を元に戻したいと思う。
で、私にはそんな風に、急に違った角度で物事が見えてしまうことが、たまにある。
だから、あるでしょ?
ないの?
おそらく、長年培われた思い込みやイメージが見え方を固定化させていたものだと考えられる。
しかし、様々な目の前の物や事柄に対峙した時、それらとしっかりと向き合い、見方を画一的ではなく、多面的、多角的に捉えることによって、真実の姿が浮き彫りになることがある。
まさに真剣に熟考しながら、しっかりと客観で物事を捉えるという作業だ。
だから、前から見たらフサフサなのに上から見たらザビエルじゃーん!てなことではないのでアシカラズだ。
例えば、
私の場合、上からの視点で見えてた ↑ この立方体が、
見方を変えると
下からの構図に見え始めてしまう・・・ みたいなことだ。
みなさんにとって最初に見えた姿が上から見た箱だったのか、下から見た箱だったのかは分からないけど、見方を変えると見え方が変わってしまう。
上と下では真逆の視点になってしまうわけで、例えば、絵にある箱を問題の種だと仮定すれば、視点(見方)によって見えてくるものが変わる、つまりは問題解決策すら変わってしまうことになり、挙句は反対の結果をもたらすことになってしまうのだ。
ということは、逆に言えば見え方が変われば見方、つまりはプロセスの違いにも気付くことができるということだ。
企業で言えば業績とプロセスの関係がここにある。
業績は大事。でもより良い経過がなければ、より良い成果は得られない。
視点、つまりはビジョンや目標や方向性が変われば、当然プロセスを変えなければならない。
しかし、実際できていないことが多い。。。
既存の慣習や固定化された考え方に邪魔されて。。。
またまた話を戻して、
人の外見に関して言えば、シチュエーションが違うからとか、髪型が変わったからとか、眉毛を剃り過ぎただとか、太った、痩せたなどということではなく、同じような状況下で、同じような条件にも関わらず、いつも接している人が普段と違って見えるときがある。
人の視覚や感覚や記憶なんて極めて曖昧なものだな・・・とつくづく思う。
そこの旦那さん、家に帰ったら、奥さんの姿をよく見てあげてほしい。
毎日見ている姿は本当の奥さんではないのかもしれない。
もっと関心を持って見てあげる。
そうすればきっと、
何見てんの気持ち悪い!
と言われながらブン殴られるだろう!
いや違う! 間違えたっ! (; ̄□ ̄)!
改めて惚れ直すことになる!!
・・・のだったらいいのにねぇ。
ではなくて、
シミの数増えたんじゃない?
なんて言ったら絶対ダメだぞっ!
・・・
でも人の場合、外見は人格、つまり内から出るエネルギーで変わるものだから、一概には言えないけどね。
人には心があるからね。
だからこそ、人間に対する見方や見え方は特に曖昧なものなんだとも常に感じる。
自分の相手に対する見方を変えてみる。
そして違った見え方や相手のあり方を認識する。
『あれっ?この人ってこんな顔してたっけ?』
『あらま、こんなことも出来たわけ?』
見え方が変わったら見方を再認識し、再確認してみる。
ところで、ステキなダジャレのくだりで使ったフィーチャーって言葉ね、≪featur
≪future≫と勘違いしてるってことだ。
だけど、ぜんぜん意味が違ってきちゃうんだよね。
それから、≪シチュエーション≫を≪シュチュエーション≫と言っちゃってる人もいたりするからね。
それからそれから、薬師丸ピロリン的に言えば≪チャン・リン・シャン≫を≪チャン・ドン・ゴン≫や≪イエライシャン≫と間違ってる人もいるよね。
・・・
チャンリンシャンだとぉ〜ぅ!?
おぉぅ?
いないよね。。。
シャンリンシャ・・・
こんな小さな勘違い的なことは、日常チャーハンなことだ。
普段頻繁に起こってることで、おそらく私自身もいっぱい間違いはあるだろうし(いやむしろ間違いだらけだ)、勘違いや思い込みなどによる読み間違いや記憶違いをすることは、個人差はあっても、人間誰にでもあることだ。
人間の認識力なんて所詮そんなもの。
だからこそ、人の見方は特に気をつけなくちゃならんと思う。
でもね、
こういう人の感覚の曖昧さを利用し、逆手に取って、モトイッ!知識を最大限に活用して、今こそ立ち上がろうではないか、タムチくん!!
恋する相手にタムチアキシトはスバラシイ、ステキなナイスガイだと思っていただくのだ。
いや、逆に自分自身思い込んでしまえっ!! 潜在意識に刷り込むのだ!!
そして戦略性を持ってコンパにお見合いにお出掛けしようではないか!!
殺し屋鉄心の無影拳のごとく、タムチさん本体が一体誰なのかも分からないほどのスピードで動き続けるのだっ!!
相手に認識されるな! 認識されないスピードで動くのだ! マッハで動け!
いや違う、動くなっ! やっぱ落ち着けっ! Don't move! あわてるな、紳士風にいけっ!
んん〜、ワケ分からんくなってきたっ! 方向性が変わってきたぞ・・・
まーいい、とりあえずタムチ頑張れ! いや頑張るな! でもまずは行動だ!
相手をとりあえず早くこさえろ! でも相手は選ぶな!
見方で見え方は変わるのだ。 根性で主観を捻じ曲げろ! むむむ・・・ そうしておけ!
美人は3日で慣れると言うではないか。
まずは伊豆シャボテン公園へ行ってこい! 目的はハシビロコウだ!
≪動かない鳥≫ハシビロコウを見て≪動じない心≫を培うのだ!
≪動かない男≫タムチロコウ!
私の言っていることが、何か間違っていると感じてもそれは気にしてはいけない。。。
細かいことを気にすると、もっとガリガリになってハシビロコウの足のようになってしまうので、まずはハシビロさんから学んで来なさい。
豊橋とひろ子でなんとなくつながってしまった。。。
トヨハシ と ヒロコ
トヨハシヒロコ・・・
ハシヒロコ・・・
ハシビロコ〜ウ!
ん〜 安直・・・ まーいいや
http://www.tokyo-zoo.net/movie/mov_book/0508_01/ ← 動かない鳥の動く姿です
PS: ハシビロコウは弊社“イキモノ係”大竹の最も愛する鳥さんです。
May 14, 2009
ONE★HUNDRED−YEN BLUES
2008年度の飲食業調査(第35回)の企業別売上高ランキングで日本マクドナルドホールディングスが首位だったとのこと。
売上、利益ともに過去最高らしい。
ほぉ〜、すごいねぇ〜 さすが不景気に強いねぇ〜 いやぁ〜 でも企業努力だよねぇ〜
うちも頑張らんとあかんねぇ〜
てなことをタムチさんとマルモさんと話しておりました。
マル: いや〜、しかし100円でハンバーガー食べられるからなぁ〜 薄利だよなぁ〜
タム: そうだよなぁ〜 100円のハンバーグだからな〜
イト: なぬ? ハンバーグ?
オイッ
オメ、それじゃマルシンさんじゃないか
多くの人がお世話になり、今もお世話になり続けているマルシンハンバーグ。
その節はお世話になりました。 (・◇・)ノ ありがとー
今、1個だいたい100円ぐらいだと思う。
たぶん。。。
でもガキの頃は確か、家にあったマルシンさんは1個65円ぐらいのスーパーの値札が貼ってあった気がする。
定価じゃないよ。
イシイのミートボールさんもよく弁当箱に入ってたな。
なんつってもおべんとクンなんだからね。
みみちゃん、おべんとクンときたら、次はホウキンくんだな。
いや、違う。 やっぱりタムチくんだね。
ハンバーグ! ミートボール! タムチボーーール(100円)!
タムチボールは何なのか?
それは開けてみてのお楽しみぃ〜
おぉっ! 100円のわりにはぁぁぁっ!! ・・・
・・・
マルシンさんもイシイさんも、おかーちゃん助けの主婦の味方だ。
ドナルドさんも現代の主婦の味方になってしまってる気がするけどね。
しかし、最近では冷凍食品もハイグレードですごいね。
ヘタしたら、子供やお父さんの弁当箱の中身は、ほぼ冷凍食品、なんて家庭もあるかもしれんね。
夕べの晩御飯の残りも入りつつね。。。
100円の価値は人によって違うと思うけど、マルシンさんにお世話になってた自分の子供の頃の感覚からすれば、その当時にハンバーガーが100円だっだとしてもきっと高いと感じただろうね。
だって10円のガチャガチャが10回もできたし。
駄菓子屋さんで100円もあったらウハウハ状態だったし。
200円も駄菓子を買ってしまったときは王様気分で、逆に罪悪感を感じたほどだし。
貧乏な子供だった私は、質より量や数を重視していたからかもしれないね。
だから高校生ぐらいではじめて自分の小遣いでマクドナルドに行った時は、こんなもんでこの値段はちょいと高いんじゃない?と思ったもんだ。
スガキヤのラーメンが食えるやないか!
大崎屋(※)のうどんが食えるやないか!! (※)豊橋にあった伝説のうどん屋さん
ハンバーガーなんかは駄菓子の延長戦で、しょせんジャンクな食べ物という感覚がとても強かった。
だから、食事という感覚よりは、むしろ間食という捉え方をしていた。
空腹を満たすためだけなら立派に食事として成立してしまうのだけど、どうしても高カロリーで添加物バリバリ、高血圧、高血糖を引き起こしそうなジャンクでファーストな食べ物は未だに、あくまで私の中だけの感覚でしかないけど、食事とは言い難い。
んじゃ、牛丼は? サイゼリアはどうなのよ!?
などと問い詰められても困るけど、何でかと言うと、セントラルキッチンで食材が仕込まれ、チェーン展開されている店舗などでの飲食をあまり食事と言いたくないからだ。
でも気持ちの上でだけね。
だって好きだしね。 よく行くしね。
コンビニの弁当しかり、いくら健康志向と言ったところで、ファミリーレストラン、いわゆる≪ファミレス≫も、そういうわけで私にとっては微妙な立ち位置になる。
しかし、なんで身体に悪いものはうまいのかねぇ。
油だな。 油と化学調味料だな。
私は、食事とは身体の健康を維持するために、栄養やエネルギーを得る行為や食材のことを指す言葉だと思っている。
そういう意味で言えば、エネルギーは賄うことができても、お世辞にも身体に良いとは思えないものばかりが私たちの環境を取り巻いている。
おでぶさんになってしまう高カロリーで栄養が無く、化学の味がしてしまうもの以外でも、産地や賞味期限が偽装されてたり、工業用の米が食用として売られていたり。
野菜にしたって、中国産は怪しいし(野菜だけじゃないか)、国産だって農薬がすごいし。
生産者の顔写真や〇〇さんの△△! みたいなラベルやパッケージがないと安心して買えないなんて寂しいもんだ。
食べられるだけで幸せじゃないかと言われればそれまでだけど、その議論はこの際どっかに置いておくとして、どうせなら安全・安心に食べられたほうが良いに決まってるよね。
我が家の子供の絵本に≪食≫のことを書いてあるものがあるんだけど、その中に、ご飯やパンは元気になる食べ物で、肉や魚は身体を大きくする食べ物、それから野菜や果物を食べると病気にならないんだよ、みたいなことが書いてある。
要はそういうことなのだ。 バランスなのだ。
空腹を満たすだけではなく、身体をバランス良く健康に保つことが大事。
食事とは健康を維持するために何かを補う営みだ。
だから、ドナルドさんは駄菓子みたいなもんだと思うわけである。
ということで100円で上等じゃい。。。 今までが儲けすぎなんじゃい。。。
さて、
100円といえば100円均一。
最近では100均のお店に行くと100円じゃないものが多く置いてある。
なんで? 全部の商品の価格が均一じゃないならウソツキじゃん・・・?
でもついつい買ってしまう。 いらんものまで買ってしまう。
ガッデム! またやられた!
大人になって金銭感覚が麻痺してしまった。
100円の大事さを忘れてしまった。
ああ神様と仏様、
浪費癖が直りません。
無駄遣いがエスカレートして止まりません。
お許しを。。。
アーメン・・・ そして南無阿弥陀仏・・・
きっと子供のときの反動だな・・・ 抑圧からの開放だな・・・
・・・ ダナ
ナー!
さてさて、
景気に左右されやすい外食産業でも、不況に強いと言われるお店では、どんどん事業形態や営業品目に変化が起こってる。
価格競争だけではなく、より付加価値を付けるため、また収益性を高めるために。
ただ単に価格が安いだけじゃダメなわけだ。
競争が激しいために、日々戦略を練り、生き残りをかけて努力を重ねている。
ドナルドさんはどんどん変化している。
最近では24時間営業の店舗まである。
吉野家さんも牛丼一筋というわけではなくなった。
個人的には一筋な姿が好きだったけど、外部環境に対応すべく、こちらも変化し続けている。
それを進化というべきかはちょいと分からない。
例えば、かの有名な養命酒は、変わらない、変えないことが選択の歴史であり、進化であったと何かの記事で読んだことがある。
ほぼ変わらない製品を売り続けている我々鋼材問屋。
製品開発に携わらないからといって、我々が変わらなくても良いという根拠も保障もどこにもない。
我々は我々なりの進化の道を模索しなければならない。
不況業種ド真中の我々鋼材卸売業界だけど、打てる手は最大限の努力を持って商売に尽力しなけりゃいけない。
付加価値の低い素材、商品である鉄。
だからどうしても価格競争だけに陥る傾向にある。
鉄の相場も随分下がってしまった。
誰もが予想などできなかったこの大不況において、鉄の値段は1kgの単価が平均すれば100円にも満たない状態だ。
水を買っても500mlで100円以上はするのに。
水より安い鉄。
ドナルドさんを見よ。 ヨシギューさんに学べ。 ダイソーさんを仰ぐのだ。
ただ、安いだけじゃダメなんだ。
そういうことなのだ!
いや、つーか、そもそも安いことがいけないんだ!
そうなんだ!!
ソーユーことなのだ!!
というわけで、
お客様のフカイフカイ慈悲の心と理解をもちまして、もう少し高く買っていただけるとぉぉ・・・
って、
チガウカッ
ケッキョクなんという開き直りで他責な考え方だ・・・
ザンネン・・・
幻の残念攻撃を受けてみよっ
エイヤー!
↑
チョ〜ザンネ〜ン
May 11, 2009
続・学びを得る
児童虐待のニュースを毎日のように目にし、耳にする。
せっかんから死に至らしめるケースも後を絶たない。
同じく子供を持つ親としては悲しい気持ちでいっぱいになるし、親に虐待され死んでいく子供たちを思うと胸が締め付けられる想いでいっぱいになる。
起こった現象だけを捉えて物申せば、とても人の所業とは思えず、鬼の所業とでも言うべき行為だ。
バックグラウンドに何があったかは知らずとも、地獄があるならば、落ちてその業火を浴びよ、針の山を歩けとでも言いたくなる。
親が子を殺し、子が親を殺す。
そんな事件が後を絶たない。
しかし、親がまだ小さな子を殺してしまう行為は、子が成長して親を殺すこととは随分性質が異なるものだ。
まだ幼い自分の子供を殺してしまう理由のほとんどは痴情、怨恨のもつれでもなければ、もちろん強盗や証拠隠し目的でもない。
≪子供の姿はすべて完全に親の責任≫だと考えている私としては親殺しで殺された親は自業自得、報いが天から降ってきたようなものだと捉えている。
数年前に学校や教師のあり方などで教育系の特番がしばしば組まれていた時期があった。
それらの番組に頻繁に出演していたニートや登校拒否児を受け入れる、ある教育施設の女性の校長の言葉が印象的で、この人はおかしいわ・・・と強く思ったのでよく覚えている。
≪原因はすべて子供にある≫とのたまったのだ。
その言葉を受けて、同じくその番組に出演していた岡崎市のやんちゃ和尚、かの有名住職は真っ向から反論していた。
しかし、数ヵ月後、その施設での児童虐待が告発されニュースになっていた。
そのニュースを見て、やっぱりな・・・と思ったことを思い出す。
それは、虐待をしていたんだろうなという≪やっぱりな≫ではなく、違和感を感じた自分は間違っていなかったなという確信の≪やっぱりな≫だということだ。
原因を子供に求めていくと結局はそういう所業を招くことになっていく。
そもそもの責任が教育する側(大人)にではなく、子供にあると考えているからだ。
おまえが出来んからいかんのだ! お仕置きしてやるっ!
そして小さなコミュニティーの中で様々な感覚が麻痺し、教育の名の下に間違った行為がエスカレートしていく。
≪カルト≫と呼ばれるような状態も、こうした環境の中で作り出されていく。
子は親の鏡。
だから親の責任において真剣に育てなきゃならん。
しかしながら、子は決して親の私物と化してはならんのが鉄則だ。
子供にだって心がある。
生まれたばかりの赤ちゃんにだって当たり前に心があるのだ。
赤ちゃんだって、あんなに小さくても、動物でもなければ物でもなく、人なのだ。
虐待は子供を物として見て扱う現象の最たるもの。
岡崎のやんちゃ和尚だって体罰で問題になったことがある。
しかし、私は体罰を否定しないし肯定もしない。
では虐待と体罰の境は何か?
それはやっぱり子供を人として見ているか、物として見ているかの違い。
子供を親の都合だけで手をあげるというような状態ではなく、そこに愛情があれば私は体罰を否定しない。
情操的な発達や発育がまだ低い子供にとって、強く印象付ける手段として時には必要なことだとも思うからだ。
しかし、それが正しいことなのか正しくないことなのかの判断は現在のところ残念ながら私にはつけることができない。
≪虐待に見えるけど本人は体罰のつもりだったらどうするの?≫
こんな愚問は懸命な人ならばしないはずだ。
私なら逆にこう質問する。
≪では、その虐待に見える行為を、もしもあなたがされたならばどう思うか?≫
常識的か非常識的な行為なのかをそもそも判断できない親の下で育った子供には残念ながら不幸な未来が待っている。
あなたが常識を持った人だとしてその行為が虐待に見えるのならばそれはおそらく虐待なんだろう。。。
最近ではわけの分からん当て字で子供に名前をつけてしまう親がたくさんいるが、本当に子供の幸せを考えているのか疑問に思うことも多い。
完全に子供を物として捉えている。
これは凝った名前が子供を支配したいという気持ちの現われであったりするのだが、子育てがうまくいかずに怒りが子供に向けられがちな背景から虐待に走るというケースを考えてみても、どちらにしても子供を一人の≪人≫としては見ていない。
児童虐待事件の背景が明らかになると、原因は内縁の旦那にあったりして、母親に多少の世論の同情が集まったりもするが、私からしたら、そんなもん同情の余地などない。
どちらにしても母親の弱い心に問題があることには変わりないし、ましてや子殺しを正当化する理由など、どこにも見つけることなど出来ないからだ。
自分の立場で物事を考え、子供を邪魔な、余計な≪物≫としか捉えていない。
物事の結果には必ず原因がある。
起きてしまった現象だけで物事を捉えると原因がぼやけてしまう。
物事の真理はいくつもない。たったひとつだ。
そして、どこにポイントを置いて現象を捉えるかによってすべての事柄の見え方が変わってくる。
子殺しの原因は当然親にある。
親殺しの原因も親にある。
そもそもの原因は子にはないのだ。
しかし、親も昔は子だったのだから、そのまた親にも原因があるということになる。
というわけで、子供だけを教育したところで問題解決にはつながらない。
そもそもの原因は親にあるからだ。
親から人が生きていくための機微や多くの事柄に対する知恵を得ることができない現代の状況、とりわけ親と子の繋がりの希薄さや核家族化やご近所付き合いがなくなりつつある今、親だって親になるための教育を受け、学ぶことのできる場所や機会を国が強制的な施策として、もっと重点を置いて考えなくてはいけない時がきているのかもしれない・・・
May 07, 2009
学びを得る
読めずに溜まってしまった本を連休中に頑張って読んでしまおうと思い、
◆朝、早めに起きることにした
◆しかし、ご丁寧にも子供たちは起きると同時に、朝の挨拶と一暴れするために私の部屋へやってくる
◆だから仕方なく読書を中断する
◆そのままウダウダと昼を迎える
◆昼間はなんだかんだで用事がある
◆もしくはオクサンがその用事を作る
◆せっかくの休みだ思うと、罪悪感で、自分だけ昼間から部屋にこもれない
◆ということで、出掛ける
◆そして8時か9時頃には子供と一緒に眠くなる
◆で、結局、本は読めない
それが繰り返された連休・・・
アマゾンさんはこれでもかとドンドンとメールを送ってきてくれる。
だからついついカチッとクリックしてしまい、翌日には自宅へ配達される。
本を買えば買うほど関連図書を紹介してくれるのだ。
関連してるからやっぱ気になる。
読書好きな人のためのメルマガにも登録していたりするから、お〜、なんか良サゲではないか・・・とそちらからの情報でもついついカチッとやってしまう。
でも、結局はアマゾンさんへリンクが飛ぶんだけど。
そんなこんなで、買ったんだけど読んでいない本が徐々に増えてきてしまった。
なんとかせねば・・・
本以外でもネットで買い物したりするから、頻繁に我が家へ宅急便さんがやってくる。
その度にオクサンは『また来たっ!』、『またやって来たっ!』などとヒャーヒャー言っている。
言い方が面白いのだけど、文字では伝えられないのが残念だ。
最近、私がネットでそんな買い方をしているからか、通販に対する抵抗が薄くなったのか、オクサンはお気に入りのAMラジオから独自の情報を入手しては怪しげなものをたまに買ったりしている。
最近では、ぜんぜん吸引力のないハンディクリーナーや、すぐ切れなくなる包丁などがどこからともなく送られてきた。
ハンディクリーナーは音だけはとても立派だ。
でもゴミを吸わない。
包丁は普通の包丁よりもあっという間に切れなくなった気がする。
でもオクサンは20年間保証付きだとか言って安心している。
取り替えてもくれるらしい。
だが、果たしてその販売会社、今頃連絡つかなくなってないだろうかと私には疑問が残る・・・
さて、読書はできなかった連休だが、子供との時間はいっぱいとれた。
しかし、満足に遊んであげることができなかった。
少し後悔が残る。
まずは、とりあえず、どこに行きたい?と4歳の長男に尋ねてみる。
そうすると、いつも『パチンコ屋さん!』もしくは『ゲーム屋さん!』と即答する。
もちろんパチンコ屋さんに子供を連れて行ったことはない。
その前に私はパチンコを随分前に卒業している。
以前、複合商業施設などにあるアミューズメントコーナーなどで、パチンコを一緒にやったら随分気に入ってしまったようだ。
教えてもないのにパチンコ屋さんの建物は外観で分かるらしい。
車で走っていると、車窓からよほど楽しそうに見えるらしい。 カラフルだしねぇ。
で、彼は大きくなったらお父さんと一緒にパチンコ屋さんに行きたいそうだ。
お父さんはベツニそんなに行きたくないぞ。
だから、それまでにもっと楽しいことを教えてあげなくちゃな・・・
パチンコ屋さんやゲーム屋さんの他にどこへ行きたい?と聞くと今度は『おもちゃ屋さんっ!』となるが、それをさらりとスルーしてその他はっ?!と聞いてやっと次の回答を頂戴することができる。
すると決まって『海!』と言う。
我が家の長男は海が好きだ。
ということで、チビスケ2人連れて3人で表浜の海岸へ行って来た。
次男坊を砂浜に裸足デビューさせてみた。
そしてちょいと目を離したら、
砂食ってた・・・
めちゃめちゃ砂を食べていた。
ジャリジャリが気にならんのか不思議だったが、塩の味が良い加減なのか、いっぱい砂を食べて顔中砂まみれになっていた。
こらこらと止めさせるのだが、目を離した隙にまた顔中砂まみれにして喜んでいる。
長男のパチンコやゲームをやりたいと思う気持ちに対しても、次男の砂を食べる行為にしても、長男が次男に意地悪をすることにしても、子どもにとっては本能的にやりたいことばかりだ。
しかし、私自身、其々に分別をつけて理解させたり、叱るという行為が上手にできていない気がする。
子供に対してやたらに『いかんっ!』、『こらっ!』ばかり言ってるだけで、長男にいたっては最近わざといかんと言われることばかりを好んで悪さばかりしている気すらする。
小さな子供は大人よりも正直な反応をする。
だから、学びが大きい。
それも、対大人との人間関係に応用できて役立つ学びばかりだ。
本だけでは学べない生きた教科書から学ぶ。
連休中、本は満足に読めなかったけど、子供たちから何かを読み取ることができたということでヨシとしよう。
育てて学ぶ。
子供には規律やルールを守った中で、伸び伸びと縮こまらずに逞しく成長してもらいたい。
そのためのサポートを親として何ができるのかをこれから考えていかなくちゃならないし、そして大人の都合だけでムヤミに叱らず、子供の自発性を育てるためにはある程度の忍耐力も必要だな、とも思う今日この頃なのだ。
May 04, 2009
高齢化社会への布石
皆の衆、金の週はいかがお過ごしですかぃ?
我が家は6Mの鯉のぼりさんたちと闘う毎日でございます。
風に飛ばされ、ロープに絡まり、雨と闘い、アンテナにひっかかり、ご近所さんからは『大変ねぇ〜』と励ましの言葉?を頂きながら悪戦苦闘の毎日でございます。。。
さて、
携帯電話はいまや、我々の生活になくてはならぬ存在となっています。
しかし、私の親もそうですが、年配の方というのは未だに電子機器などに毛嫌いと言いますか、拒否反応を示す方も多いです。
先日、駅で電車待ちをしていたら、私の近くで寅さんのテーマが携帯の着メロで流れ始めました。
それもかなりデカイ音量で。
携帯の持ち主は、年恰好から推測するに、80歳前後のおばあちゃん。
いや〜、若いです。
ひょっとして孫とかにダウンロードしてもらってるかもしれませんが、行動からすれば、携帯本体は普段から使いこなしてる感じがしました。
きっとらくらくホンだったりすると思われますが、それにしても10年前では、ほぼ見られなかった光景だと思います。
(ショルダーホンを持ってたブルジョアなおじいちゃんはいたけどね)
パソコンを始めるお年寄り人口も急増していますが、年齢を笠に、あれできないこれできないと言っていると、これからの高齢化社会、きっと暮らしにくくなります。
私も電化製品などに弱いと自覚していますが、だからと言って何もしないと当たり前のことですが、何も出来ないで過ぎていってしまいます。
苦手なことや、面倒な何かに対して心をシャットアウトした瞬間に、情報やそれに伴った行動を実行する機会と経験を得る機会が遮断されてしまいます。
ということは、やっぱり、そこで成長はストップしてしまいます。
仕事でもプライベートでも何でもそうですが、前向きでいるか後ろ向きでいるかで結果が大きく変わってしまいます。
で、前向き後ろ向きでいうと、凄まじいエネルギーとポジティブ志向を保ちながら成長し続ける一見するとかなりの怪しいオーラを発している人を発見してしまいました。
その名も≪玉ちゃん≫。
世の中には超前向きで、様々な面で考えさせられるすごい人たちがいますが、怪しさではピカイチです。
いや、ケッシテ悪い意味じゃございません。
東海地方では日曜朝6時からテレビ愛知で放映されている『玉ちゃんのいきいき青春歌謡塾』。
番宣用のポスターには74才となっていますが、昨日見た時には『玉ちゃん76才!』と言っていましたので、2年ぐらいは(それ以上?)やっている番組だと思います。
なので、もちろんご存じの方はいっぱいいると思います。
私も日曜の朝ということで、前日の深酒が残りつつ、二日酔い状態でボケ〜と眺めていることもあった番組なのですが、玉ちゃんを意識したことがありませんでした・・・
しかし、演歌の世界はあいかわらず独特の世界ですねぇ。
日曜日の朝から場末のスナックへいらっしゃい、みたいな気分になります。。。
そもそもあの番組自体が怪しいニオイをプンプンさせまくっています。
初老の男女が恋愛について煌々と語り合っていました。
とっても違和感です。。。
しかし、人間何才になってもそういうことなのです。
番組のターゲットはシルバー世代ということです。
これからの超高齢化社会を予感させます。
番組内で、<期待の新人>として紹介されていた男女ふたり、どちらともが、どう見ても50才を過ぎていました・・・
女性の方は新曲を発売するとのことでしたが、 【・・・】 と【?】マークが私の頭の中を埋め尽くしました・・・
本当にただのおばさんです。
歌もご近所レベルでは少しだけ上手なのかもしれんねぇ〜というレベルです。
どう見ても、カラオケ好きな居酒屋のおかあちゃんってな感じです。
趣味だな・・・ きっと知り合いは売りつけられてんだな・・・ 押し売りだな・・・
それが<期待の新人>って・・・
演歌界って人材不足なのね・・・
≪大阪のおばちゃん≫と言われるような、あの年代の女性に現れる特徴は、もちろん大阪在住のおばちゃんたちだけにあるわけではなく、どこの地方にでも、もちろんこの豊橋のおばちゃんにだって共通の特徴です。
女性は年齢を重ねる度に強くなっていきます。 そう見えます。
特に60才を越えたあたりから急激に超人になってしまいます。。。
男性だって負けてはいられません。
負けていない男、玉ちゃん。
玉ちゃんには夢がいっぱいあるようです。
70才になって歌手デビューしたようですが、それまでも経済界では有名な人で、現在でもとっても偉い方のようです。
いつまでも夢や目標を持つことって大事なんですねぇ〜。
しかし、女性が今後強くなっていくことは避けられそうにありませんから、これからの社会、特におばちゃん世代の支持を得られないものに関しては生き残りが厳しくなってくるということです。
よしっ! んじゃ、今のうちから布石を打っておかなきゃっ! パチ〜ン!
って何のだ?